江戸時代、現在の長岡市(旧山古志村、旧川口町)と小千谷市にまたがる山間地域にあった二十村郷で食用に養殖していた真鯉が突然変異によって誕生したのが錦鯉の始まりだとされている。新潟県の県魚にも指定されている錦鯉は、世界へ輸出されることで日本の伝統文化を伝える重要な地域資源のひとつとして近年、海外で注目されている。
日本政策投資銀行の調査報告によると、2017年現在の錦鯉の輸出額は、おおむね米の輸出額を上回る金額で推移しており、このことは新潟県の錦鯉が日本を代表する県産米と並んで、海外に対して高い需要があることを示している。このような世界情勢の中、錦鯉に観光資源としての魅力を見いだし、インバウンド需要に繋げていこうとしている会社が誕生した。篠田康弘さん(66歳・長岡市)が代表取締役を務める錦鯉観光株式会社である。
同社の事業内容は、観光ガイド、民泊施設「闘牛と錦鯉の伝統文化会館」(小千谷市)の運営である。観光ビジネスとして越後二十村郷の闘牛と錦鯉の伝統文化を提供し、現代の日本人が苦手に感じている「日本の風景の美しさ」や「日本人の心」の紹介をすることをその目的とし、闘牛と錦鯉に特化した観光ツアーの企画など、大手旅行会社にはみられないユニークな観光事業を展開している。
篠田代表取締役は、闘牛場の近くで生まれ育った。周囲には牛を飼う家が多くあり、父親は錦鯉を養殖していた。闘牛も錦鯉も、篠田さんにとって身近な存在だったという。錦鯉の養殖は、美しい姿の鯉のみを残すため、選別に漏れた鯉は佃煮や天ぷらになって食卓にあがったという。篠田代表取締役にとって、「牛」も「鯉」も生活の中に溶け込んでおり、それだけに特別なものだとは意識することなく少年時代を過ごしていたという。1954年になると、二十村郷は「昭和の大合併」により長岡市と小千谷市の一部に分断。地図上から、「二十村郷」という地名が消えた。高度経済成長を迎え、農村部の暮らしも次第に変化しくことにもの寂しさを覚えながらも、地元企業で長年、営業職をして生計を立てていた。
そんな篠田代表取締役の生活に転機が訪れたのは、1977年のこと。胃癌で末期症状だった62歳の父親が突然「闘牛が観たい」と言い出したのだという。一度は途絶えた闘牛が再開して間もない頃の話である。篠田代表取締役は父親を急いで連れ出して、闘牛場まで車を飛ばした。ところが体力の衰えのせいだろうか、闘牛場へ到着しても、父親は車から降りようとはしない。車内まで聞こえる勢子たちの声を満足そうに聞いていたという。
自分がかつて暮らした二十村郷の伝統と文化を残そうと、2016年に有志で任意団体「闘牛と錦鯉の伝統文化を楽しむ会」を立ち上げた。同会では、観光ツアーや写真展などを企画し、闘牛や錦鯉を中心とした二十村郷のかつての暮らしを、市内はもちろん、市外の人たちにも伝えてきた。2018年、新潟県でも「住宅宿泊事業法」が施行されると、早速かつての生家を改装し、個人事業として民泊事業を始めた。事業を進めていく中で様々な事業所との取引の都合上、次第に観光事業として会社の設立を志すようになったという。ところが、観光業として開業するには、旅行業務取扱管理者の資格が必要などのかなりのハードルが伴う。新型コロナウィルス禍の影響もあり、旅行業、観光業者にとって苦難の時代が続くなか、持ち前の努力の甲斐もあって、篠田代表取締役は2021年に同資格を取得、2022年6月に悲願の観光会社を設立した。
篠田代表取締役は、「せっかくここまできたので、今後地域外の人々にも楽しんでもらえるような観光業をしたい」と前向きな意欲を示している。ウィルス禍も落ち着き、パッケージツアーを中心としたマスツーリズムでは味わえないニッチ観光の需要が高まる中、事業への追い風となるだろうか。同社の提供する旅行企画は、他にはないユニークな体験となりそうだ。
【関連サイト】
錦鯉観光株式会社ホームページ
(文・撮影 湯本泰隆)
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